旧統一教会(家庭連合)の家庭崩壊の原因は?人間始祖の夫婦問題の清算!

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皆様こんにちは!

元首相の安部さんの襲撃事件を発端にメディアで取り上げられている旧統一教会の問題について、高額献金による家庭崩壊や自民党と教祖の繋がり、信仰に苦しむ2世問題など、旧統一教会の負の側面が浮き彫りになっています。

宗教は人を幸せに導くためのもののはずで、家庭連合ならばなおさらに家庭の幸せに重きを置いているため、こうした実態に対して教義においても矛盾があるのではと感じるかもしれません。

今回の記事では特に夫婦間におけるトラブルがどうして起きてしまうのか、その原因や理由について筆者が學んできた範囲で説明してみたいと思います。

簡単に結論だけ申し上げますと、統一教会はユダヤ教やキリスト教の失敗の清算のためにあり、我々が解決してあげるのではなく、我々で以って失敗した立場を再現して克服しなければならないがためにトラブルが起きています。

交通事故が起きるのは?

昔、仏教徒の方にお話を伺ったことがあります。

例えば車の衝突事故があったとしましょう。

ぶつかった側、ぶつけられた側、どちらにも衝突事故を起こす原因があったというのです。

それは単純に一方は脇見運転をしていたとか、居眠り運転をしていたといった短絡的な原因ではなく、その両者を交通事故で会わせた遠い原因、遠因が両者にあるということなのです。

つまり交通事故が起きたことが問題ではなく、交通事故によって引き寄せられた過去の遠い因縁があり、それは何であろうか。

ここが重要なポイントになります。

我々は、清算されなければならないものがあるため起きているとみます。

寧ろ、清算する機会がやってきたとみなします。

これは運転手本人の直接の過ちではなく、過去の因縁故に生きている者が負わなければならないのです。

しかし、大抵は自分に火の粉が降りかかってくるのを避けます。

誰かが失敗の再現を負い克服しない限り、歴史は繰り返すのです。

さて、家庭連合の夫婦のトラブルは、聖書のアダムとエバの失楽園の物語にあるように、罪を犯し神との関係が切れたことに起因しています。

神との関係を取り戻すために、失楽園の物語で起きたことを清算しなければ、神の前に帰ることはできません。

それを歴史においてユダヤ教やキリスト教が台頭してきましましたが、その使命を完遂できず統一教会が出てきたのです。

アダムとエバの夫婦問題とは?

アダムとエバは聖書の創世記に登場しますが、「失楽園の物語」に罪の起源が見られます。

その要約を見てみましょう!

神様はエデンの園を造られ、その中央に「生命の木」と「善悪知る木」を生えさせた。

そして「うめよ、ふえよ、地にみちよ」という三大祝福のみ言と、「善悪知る木からは取って食べるな。食べたらきっと死ぬであろう」という戒めを与えた。

そこに一匹のヘビが現れ、神の戒めと反対のことを教えた。

ヘビの誘いに乗ってしまったエバは、戒めを破り取って食べてしまい、隣にいたアダムにも食べさせてしまいました。

神は彼らを追い出し、アダムとエバはエデンの園から出ていくことになる。

 

取って食べてしまったあとのやり取りがこちら!

神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。

そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。

創世記:3章11-14

アダムは取って食べてしまったことを、エバのせいにし、エバはヘビのせいに。

こうしてアダムとエバ、エバとヘビの間では、お互いに責任転嫁し恩讐関係となってしまいますが、これが正に現代の私たちの姿を現しているのです。

 

詳しい説明はここでは省きますが、ヘビは天使を表していますが、天使の中でも最も位が高く神に仕える天使長です。

 

アダムとエバは互いに本来結ばれるべき結婚相手でした。

しかし、エバは不倫なる愛から天使長と結ばれ、本来あるべきではない愛で以て人類歴史は始まったのです。

現代においても、相手から奪いたいという略奪愛が芽生えるのもここからきていますが、結局は罪を克服できずに同じ過ちを繰り返してしまうのです。

 

どうしたら罪は生じなかったか

人類はアダムとエバの夫婦愛から始まったのではなく、エバと天使長の不倫愛から出発してしまいました。

ここで過去を振り返り顧みてみましょう。

天使長は本来、アダムとエバのお世話係でした。例えていうなら雇われた家政婦とか召使いといった感じです。

しかし、お世話係の本分を離れて過分なる欲望を抱いて、エバと結ばれたいという思いが湧きエバを誘惑するようになります。

エバもアダムが隣にいないので、いつも寂しくしていたといいます。

そんなエバにとって天使長は頼もしく見えてしまい、エバもアダムの伴侶としての位置を離れてしまったのです。

取って食べるというのは、性関係を持ったことを意味します。

エバは天使長に、アダムはエバに責任転嫁しました。

 

さて一体誰が悪いのでしょうか?

もちろんお世話係の天使長が自分の立場を弁えていれば問題ありませんでした。

例え誘惑があっても、取って食べてよいのかと、神に確認すればよかったのです。

しかし、エバは天使長に、アダムはエバに責任転嫁してしまいました。

アダムかエバで踏みとどまればよかったものの、神の家庭を築く2人が自らその位置を放棄していまう結果になってしまったのです。

 

罪の清算の方法は?問題を再現?

では、いかにして罪の清算ができるのか、難しい話は抜きにして簡単に一言。

当時の問題を起こして、克服する者が現れればよいのです。

もし皆さんがちょっとしたことでも、過ちを犯して過去を悔いているのであれば、同じ状況を作って克服すればよいのです。

過去に帰り、正しい選択をし今に戻ってくればよいのです。

方法としては以上となります。

 

つまり、アダムとエバと天使長が、それぞれの立場で位置を離れずに役割を果たしたという型を造るしかないのです。

これ一点に尽きます。

 

これを家庭連合の家庭に当て嵌めてみましょう。

間違いから出発しなければならないので、夫が堕落した天使長を象徴し、妻が堕落したエバを象徴しています。

アダムは、イエスキリストの代わりの再臨主です。

この夫婦それぞれが自身の役割に気づき、過ちを反省し正しい行動をとらなければならないのです。

このように我々家庭連合の信徒は、特に2世の両親はこの型を克服していかないといけなかったのです。

そういう夫婦の組み合わせなのです。

教祖が全部面倒見てくれるのではありません。

 

これらを克服する信徒を望み、世界に蔓延る問題を解決できる信徒を待っていました。

それゆえに信徒自身、またその家庭に問題が多かったのです。

まず克服する者が現れなければ、他を指導することはできません。

 

統一教会においては間違った愛の家庭の克服を担当し、家庭連合においては理想家庭を育て、その家庭があらゆる家庭の問題に対して指導することのできるための養成機関なのです。

そういう意味では、受動的に幸せになれるところではありません。

 

具体的な事例で説明

家庭連合で結ばれた夫婦において

夫が堕落した天使長、妻が堕落したエバを象徴していると説明しました。

妻が勝手に高額献金する、土地を勝手に売って献金するなど、こうした事例は天使長とエバのそれぞれが役割を果たせていないがために起きています。

天使長はお世話係なので、飽くまでエバはアダムの妻であるので、2人の結婚のために教育しその本分を果たさなければなりません。

エバは自分の夫が誰なのかはっきりと自覚をして戒めを守らないといけず、天使長よりもアダムに相対しなければなりません。

アダムは再臨主のことですが、分かりやすく教会とします。

エバは過ちを犯しても本来の夫は誰なのかは分かっていましたがゆえに、そこに帰っていきたいという本心の指向性があります。

天使長もエバをアダムのところに送ってやらねばなりません。

 

エバ(妻)の愛は、夫(天使長)対してよりも教会(アダム)に対して向かっていなければなりません。

献金するというのは教会にするわけですから、アダムを愛するという意味なのです。

しかし、それは天使長の本来のお世話係としての許可が必要なのです。

天使長がカタチだけでなく、心からアダムと結ばれることを願っていた本来の天使長の姿で以て、献金することの許可を貰ってエバは献金しなければならないのです。

 

それを夫の許可なく勝手にするというのは、同じ失敗の繰り返しをしているだけなのです。

 

ここまでお読みになられて、あれ?それじゃ家庭連合の夫は夫じゃないのと思われると思いますが、その通りなのです。

というと誤解がありますが、これには続きがあって、その清算ができた家庭は正式な夫婦となれます。

と、いまはここまでにとどめておきます。

決して夫をないがしろにしているわけではありません。

 

おわりに

最後までご覧いただきありがとうございました。

なぜ家庭に問題が多いのか、それは人類始祖の過ちを清算するためでした。

その過ちとは愛の過ちです。

この罪というものの清算をする歴史が長かったために、家庭を大事にする宗教が一番家庭崩壊しそうな状況という皮肉なこととなってしまっているように見えるのも、

我々信徒の家庭で以て、その罪を一心に背負って清算する道があったためなのは理解していただけたかと思います。

罪とか清算とかだいぶ重たい表現をしていますが、その中身は身近にある家庭の問題であるのが分かると思います。

宗教の組織性の問題にせずに、本質的な部分を見てくださると幸いです。

 

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