皆様こんにちは!
共産主義は搾取のない、自由な社会、富のあふれる社会、悪徳の一掃された社会の実現を目指して世界中で運動が巻き起こっていました。
しかし、現れたその社会とは共産党の一党独裁で、革命により大量の虐殺が行われてきました。
共産主義はマルクスの思想に基づいていますが、このような悲劇的な結果を招いてしまった原因はどこにあったのでしょうか。
今回の記事では、マルクスの思想形成の変遷をたどってみたいと思います。
マルクス家について
カール・マルクスは1818年5月5日にドイツのライン地方のトリール市でユダヤ教のラビの家系に次男として生まれました。
マルクスの父は、ハインリッヒ・マルクス。母はヘンリエッテ・マルクス。
当時はプロシア政府によるユダヤ教徒を公職から排除する条例があったため、キリスト教に改宗せざるを得ない状況にありました。
父は誇りを捨ててキリスト教に、母は厳格なユダヤ教徒だったため改宗に反対でした。
やむなくもキリスト教に改宗しますが、夫の死後に再びユダヤ教に戻っています。
マルクスの青年時代
このようなときにマルクスは生まれ、ユダヤ人というだけで差別を受け、同じユダヤ人からは背教者として蔑視されてきました。
そこから生まれてくるのは反抗心、憎悪心、復讐心といった闘争的な性格でした。
さらにユダヤ人というと強い選民意識があり、差別から人々を開放しなければならないと立ち上がっていきました。
その心理が神に対して反旗を翻すまでになりますが、最初から無神論に陥っていたのではなかったのです。
幼少年期のマルクスは、キリスト教を受け入れていたのです。
カールマルクスはギムナジウムを卒業後17歳のときに書いた論文に、聖書のヨハネ福音書第15章についてこのように書いています。
こうして、キリストとの合一は、内心の高揚、苦しみのなかのなぐさめ、安らかな確信を与え、また名誉心からでもなく名声浴からでもなく、ただキリストのためにのみ、人間愛にたいして、あらゆる高貴なもの、あらゆる偉大なものにたいして、開かれる心を与えてくれる。
したがって、キリストとの合一は一つの喜悦をあたえてくれるのであるが、その喜悦は、エピクロス派がその軽薄な哲学の中で、また、いっそう深遠な思想家が智識の最も隠された深淵のなかでつかみとろうとして果たせなかったものであり、また、キリストと、そしてキリストを通じて神と結びついた、とらわれない、子どものような心情だけが知っており、人生をいっそう美しくかたちづくり高めるものなのである。
とてもキリストに対して真っすぐな眼差しを感じ取ることができます。
父親の警告
マルクスの反抗心や憎悪心、復讐心は次第に頭をもたげてくるのでありますが、そのことに父のハインリッヒは気づき心配していました。
と同時にマルクスに対して
暴風をおさえて落ち着きつきをたもちなさい
しかし父の警告もむなしく、カールマルクスの反抗心、憎悪心、復讐心はどんどん高まっていきました。
彼が書く詩や論文は、怒りや混乱した心を表現したものとなっていきます。
父はついに怒りを発して次のように書き送っています。
私は正直なところこんなものを受け取るよりは、むしろ追っ払いたいくらいだ。それは、愚劣で駄作で、たんにおまえがおまえの天分を浪費し、幾晩も徹夜して化け物をうまだしていること、またおまえが新しい妖怪どものまねをしていることをしめすだけだ。この妖怪どもは、自分のことばを、それ自身の意味でなくほどに誇張し、なんらの思想を述べているので、ことばの洪水でしかないものを天才の所産と命名するのだ。
父は息子がなにやら悪霊に憑りつかれて支配されているのを感じとっていました。
そしてカールが目を覚ますことを願っていたのです。
カールマルクスは戦闘的精神を抑えようと葛藤していましたが、このときもまだ心が負けてマルクス主義の構築に向かったのではありませんでした。
マルクスは大学を卒業して社会に出ていきますが、3回にもわたって心を追いつめられる事態に遭遇し、ついに反抗心、憎悪心を爆発させてしまいマルクスの思想は構築されていったのであります。
第一の心理的撃発
マルクス思想の形成に繋がった第一の心理的撃発は、大学から追放されたことでした。
1835年にボン大学に進学したマルクスはヘーゲル哲学を学びます。
ロゴスが世界をつくりあげているということが基本的な考え方になっています。
このヘーゲル哲学には派閥があり、
- プロシアが現実のままで必然的に理想社会になる ⇒ 右派
- 政府を覚醒させて社会を変革し、理想社会が実現する ⇒ 左派
左派に所属していたマルクスは大学教授の道を希望し、またそれはマルクスの父の願いでもあった。
ヘーゲル哲学の目標である「自由の実現」を教壇から社会を変革しようと考えていました。
同じ左派に所属し講師をしていたブルーノ・バウアーを頼りに、教授の道の可能性を見出していたのです。
しかし、バウアーを教授にしようとしていたボン大学の文部大臣が死去していまい、事態は一変しバウアーは大学から追放されていまったのです。
同時にマルクスの大学教授の道も挫折してしまったのです。
大学教授の道を諦めたマルクスは言論の道を目指すようになります。
第二の心理的撃発
1842年にライン新聞が発行されますが、マルクスは寄稿するようになり、24歳で編集長に招かれます。
マルクスは言論の力で政府の誤りを正しながらヘーゲル哲学の自由の実現を達成しようとしました。
ところがプロシア政府の弾圧によってライン新聞は禁止されてしまい、マルクスは編集長の職を辞します。
また結婚相手であるプロシア貴族の娘との結婚を進め、母と姉から断絶してしまうのです。
マルクスの母は厳格なユダヤ人だったため、結婚には反対でした。さらに遺産分配を拒絶し、政府に対する反抗心と憎悪心、家族と断絶した孤独感がありました。
これが第二の心理的撃発となります。
第三の心理的撃発
プロシア政府は、政治的変革を訴えるマルクスたちの外国での活動を快く思っていなかった。
プロシア政府はフランスに圧力をかけて、1845年フランス政府の退去命令により、マルクスはパリを去らなくてはならなくなった。
マルクスはブリュッセルを亡命先に選びます。
マルクスのあとを追って妻と娘がやってきますが、政治的な論評を禁じられたマルクスに収入源は全くありませんでした。
そんな中、マルクスの苦境を救ったのが終生の友人エンゲルスでした。
プロシア政府の執拗な追求と経済的な困窮によって、マルクスの怒りは爆発し、憎悪心、復讐心に燃えるようになりました。
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