こんにちは、あらたです。
私たちは日本に住んでいると、折に触れて神社にお参りしたり、神道の文化に触れたりしますよね。 その日本の神々の中で、最高神とされるのが伊勢神宮に祀られている「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」です。
私は普段、聖書をベースに信仰生活を送っていますが、日本の神話を学ぶにつれ、あることに気づいて胸が熱くなりました。
それは、 「表現方法は違っても、人間が根源的な神様に求める『親の愛』は、洋の東西を問わず同じなんだ」 ということです。
今日は、少し視点を変えて、日本神話を「心の目で」読んでみたいと思います。 特定の学説を主張するものではありません。日本の心を大切にしながら、普遍的な神様の愛を感じてみましょう。
なぜ最高神が「太陽」なのか?
天照大御神は、その名の通り「天を照らす」、つまり「太陽神」です。
古代、世界中の多くの文明で、太陽は信仰の対象でした。 なぜでしょうか?
それは、太陽がなければ作物が育たず、生命が維持できないからです。 太陽は、すべての命の源であり、分け隔てなく光と熱を与える「無償の愛の象徴」だからです。
聖書における「光」
興味深いことに、聖書においても神様はしばしば「光」や「太陽」にたとえられます。
「主なる神は太陽であり、盾である。」(詩篇84:11) 「神は光であり、神には少しの暗いところもない。」(ヨハネの手紙一 1:5)
日本の古代人が、自分たちを生かしてくれる根源的な力を「太陽(アマテラス)」として敬った心と、聖書が神を「光」と呼ぶ心。 そこには、「私たちを生かそうとする偉大な親の存在」を直感的に感じ取っていた、共通の霊性があるように思うのです。
「天岩戸(あまのいわと)」神話が教えること
天照大御神の最も有名なエピソードといえば、「天岩戸隠れ」ですよね。
弟神スサノオの乱暴な振る舞いに心を痛めたアマテラスが、岩戸に隠れてしまい、世界が真っ暗闇になって大混乱に陥った、という話です。
これをただの昔話として読むのではなく、「神様と人間の関係性のメタファー(暗喩)」として読んでみると、とても深い意味が見えてきます。
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スサノオの乱暴: 人間の自己中心的な振る舞いや、愛への裏切り。
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岩戸隠れ: 親(神様)が心を痛め、愛の光が届かなくなってしまった状態(=霊的な暗闇、地獄)。
神様(親)は、子供が憎くて隠れたのではありません。あまりの悲しみに、顔を合わせられなくなってしまったのです。 そして世界が闇に包まれた時、一番心を痛めていたのは、岩戸の中にいたアマテラス自身だったのではないでしょうか。
この神話は、 「私たちが愛から離れる時、神様もまた深い悲しみの中にいる」 という、神様の「親としての痛み」を教えてくれているような気がします。
タカミムスヒと造化三神(もっと知りたい人へ)
(※ここで少しだけ深い話に触れますが、断定は避けます)
日本神話(古事記)の冒頭には、アマテラスよりも前に現れた、姿形のない根源神「造化三神(ぞうかさんしん)」が登場します。 その中心にいるのが「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」、そして生成の力を司る「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」です。
一部の研究者の間では、この「姿なき根源神」の概念が、聖書における「唯一絶対の創造主(父なる神)」の概念と非常に近いのではないか、と指摘されることがあります。
もしそうだとすれば、
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姿なき根源の親=タカミムスヒ(父なる神)
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目に見える光として現れた救い主=アマテラス(御子としての役割)
というふうに、役割を重ね合わせて見ることもできるかもしれません。
もちろん、これが歴史的に同一かどうかは誰にも分かりません。 しかし重要なのは、古代の日本人が、目に見える太陽の向こう側に、さらに偉大な「見えざる根源の働き(ムスヒ=結び、生成する力)」を感じ取っていたという事実です。
まとめ:名前は違っても、親は一人
私は、神社に行って手を合わせる時、自分の信じる神様を裏切っているとは思いません。
「アマテラス」という名前を通して、古代日本の人々が懸命に求めた「太陽のような温かい親心」に、敬意を表しているからです。
名前が違っても、文化が違っても、私たち人類を生かそうとしている「根源の親」は一人です。
日本神話という美しい「革袋」に入れられた、普遍的な神様の愛の物語。 そうやって味わってみると、日本の文化がもっと愛おしく感じられませんか?


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