神様の本当の願いとは?家庭の喜び愛を味わいたい神観を紹介!

未分類

皆様こんにちは!

私たちは神様にお願いごとをすることが良くあるのではないかと思います。

神社仏閣の参拝のときや、また人生の重要なイベントに秘かに祈るような気持ちになっていたり。

私たち人間に願いがあるように、神様にも願いがあるって聞いたことありますか?

人間や自然界を造った原因者がいるとすれば、その存在は創造者とか神様とか、サムシンググレート、宇宙意識などといった呼称があります。

仮に神様と呼んでいこうと思いますが、実はこの神様という存在、宇宙の創造者が存在するのかしないのか神様の実在性については、論理的にいなければならないという結論が出ざるを得ないのです。

しかし、これは出ざるを得ないという結論に至っただけで、その本体がなんであるのか仮に存在するにしても宇宙と人間を創造した目的は何で私たちとの関係など根本的な問題は明確になっていません。

今回の記事では文鮮明先生の言説に基づき神様の願いについて、まず神様のような存在がいなければならない話から、次に動機とその目的は愛と喜びを味わうことで、その中心は家庭にあることを見ていきたいと思います。

神の実存証明

神がいるという証明はまだされていませんが、論理的にいなければならないという結論がでています。

例えば、物理の力の法則では出力入力が同じではありません。

必ず入力に対して出力が小さくなります。

 

生命維持をするのに私たちは毎日食べますが、必ず排出されます。

これは入れたものが100%使われていないことを表しています。

 

地球をはじめ惑星は太陽の周りを運動していますが、この惑星の運動もどこからかエネルギーを供給しなければ、運動が停止してしまうことが言われています。

ここから第3の力の作用の必要性がでてくるのです。

この力と連結されなくてはならないのです。

そして作用されれば主体と対象の関係があるべきだといいます。

 

私たちは相対的な原因を神様と呼んできたのです。

 

神様の創造目的

ここからは神様という存在がいるという前提で話を進めていきたいと思います。

神様はいるにしても私たちの生活にどのように関わっていくのか、せっかく神様はいると見出してもその説かれる神観は様々です。

神が天地を創造した、天地が神を創造したなど反対の内容があるので困ったものです。

 

さて、神様の創造目的については、原理講論の創造原理にこのように書いてあります。

神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。

ここから読み取れることを要約すると、善の目的を人間と被造物が完成されたのを見て、神様が喜び楽しむためと分かります。

これだけでは完成するのは人間と被造物で、神様はそれをご覧になっているだけで天上から人間世界を見下ろしているだけのような感じを受けます。

既成教会の牧師たちは、神様は玉座に座って、全知全能であり、遍在者だといいますが、それのどこがおもしろいのでしょうか。玉座に何万年もただ座っていたとしたら、おしりがぶよぶよになるのではないですか。皆さん、座っているのが好きなら、三日間だけ座っていてみなさい。

それでは神様は、何をしているのですか。キリスト教でいえば、神様は玉座に座って永遠に栄光の中で…。独り座っていて何が栄光でしょうか。永遠の以前から今日まで1箇所に座っていて、「おお、私の権力はすごいな。私のこの全知全能で重大な…」。それが何ですか。ぺっ、とつばを吐きます。神様も愛を中心として、今でも生きていらっしゃるのです。このような論理を否定することはできません。

このような従来のキリスト教の超越的な絶対者を思わせる神観と、お父様が語られているみ言では神観が大きく違っています。

それでは文鮮明先生が述べられる神様はどのような姿なのでしょうか。

み言を見ていきたいと思います。

アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。

神様において、新しい朝を迎える一番の栄光の時とは、肉体をまとうことができる時です。

皆様が神秘的な世界に入って、「神様、何処にいらっしゃいますか」と言えば、自分の中から「ここだ、ここだ」と言うのです。人々はそのような体験を多くします。それで、人間はすなわち天だという話が出てくるのです。

なぜ身体があるのか、その目的が分かりました。

同時に精神と物質の哲学的な問題が解決されたものと思われます。

 

神様の本当の願い

従来の価値観では、神様と人間は、創造主と被造物の関係で別々の独立した存在で、全知全能者として全てを知り眺める神様でした。

しかし、自分が神様の立場になって考えてみるとどうでしょう。

上から眺めているだけで満足するでしょうか。

観て眺めるだけの神様では寂しい神様ではないでしょうか。

 

文鮮明先生のみ言に本当の神様の願いについて述べられている箇所があります。

それがこちら。

神様がなぜアダムとエバを造ったのか分かりますか。神様も父母の立場で息子、娘を愛する愛を一度もってみたいというのです。その次はアダムとエバのように新郎新婦が愛する愛、その愛を一度体験してみたいというのです。おじいさんの愛、その次は国を一度愛してみたいし、世界を一度愛してみたいし、みなもちたいのです。

神様と人間の関係は親子の関係であると聞いてきましたが、天から眺めているだけの神観では矛盾が生じるのです。

従来の神観と違うのは、神様自身が愛の当事者である点です。

神様自身が父母として愛したいだけでなく、子どもの立場で愛を受けたいし、夫の愛、妻の愛を、兄の愛、姉の愛、妹の愛、弟の愛を体験したいのが神様の願いなのです。

また祖父、祖母の立場で孫を愛する体験もしたいのです。

人間一人ひとりの人生を生きているのが神様なのです。

天から地上の情報を受け取って感じるのではなく、天の玉座から地上に降りて自身が人間の身体を着て感じたいのです。

 

喜び愛の中心は家庭

ここまでを纏めると。

神様の創造目的は身体を着て震動的な衝撃が来るようにし、喜びを感じること

です。

次はその喜びの基準は何かを見ていきたいと思います。

身体の感覚器官を通して、例えば味覚で以ってすれば、頭の中で思い浮かべるよりも実際に舌で美味しさを味わう方が何万倍もの刺激がきますが、

刺激に囚われてしまえば唯物的な考えに傾いてしまい、何のための身体なのか分からなくなり暴走してしまいます。

身体を着た地上世界は天の法度に従っていることを忘れてはなりません。

家庭を中心とした喜び愛の完成、これが宇宙の万物の運動を支配しているのです。

自分だけが味わうって喜ぶことも良いでしょう。

しかし、それ以上にその美味しさを味わってもらって相手が喜ぶ姿をみて喜ぶ味わいがあります。

これを家庭という舞台で味わいたいのが神様なのです。

最後に、このことについて言及している箇所を取り上げたいと思います。

神様は内的なお兄様なのです。それは驚くべきことです。何ですか?先生は今、何と言いましたか?それでは、内的なお兄様になられる前には、何になられるでしょうか?それは双子として胎中に一緒にいた赤ん坊です。双子です。ですから、双子の赤ん坊として生まれなければならないのです。

それゆえに神様は何であられるのかというと、見えない私の双子のお兄様であられ、赤ん坊時代、乳児時代における見えないお兄様なのです。変わったことを聞いたでしょう?このことをすべて知らなければなりません。

神様は、どのようなかたですか?神様も、そのように育ってこられたというのです。見えないように乳児時代、兄弟時代、成長した結婚時代、父母時代を過ごされ、父母時代になってアダムとエバを創造されたのです。

神様には創造する前から、神様の家庭があったのです!

それを地上で成したい、もっと喜びを大きくしたいと身体を着て、人間と一体となることを願っているのです。

神様が願う家庭を中心とした喜び。

神様の願いが何か分からなくなってしまたために、

宗教や哲学が人間の生の本質を探究し、科学が物質の世界を探求してきたのですが、いまだにその答えを出せずにいます。

精神が物質をつくるのか、物質が精神をつくるのか。

アリストテレスの内在目的論で展開される、存在に目的はあるのかないのか。

神様の存在、そして創造の動機と目的、これらが「家庭」で以って統一できるというのが文鮮明先生の教えであります。

この事実を宗教を通して示してきました。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました